架空請求ハガキ

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本日のポストに入っていた古いタイプの架空請求詐欺のハガキだ。

警察に連絡したところ、やはり詐欺だった。

ネットで住所検索すると出るわ出るわ、有名な事業所のよう。

消費生活センターでも相談になってくれるらしいが、私は一番に警察に電話してしまった。裁判所となれば警察だと思っていたからだ。

ハガキの他にも、封書で届くらしい。要注意とのこと。

 

◆変なところがいくつか。

私が被告になるならここの住所の管轄する裁判所から連絡がくる。ここの住所の管轄する裁判所は隣の市の裁判所である。東京とはどういうことか。

もし不動産に関してなら東京で提訴もあるかもしれないが東京に所有する不動産は持ち合わせていない。

 

そして誰にでも読めるハガキで通知が来るのもおかしい。内容証明でもないし、特別送達でも書留でもない。個人情報が読めない様にシールがあるわけでもない。

しかも消印が板橋西と読める。わざわざ板橋まで移動して投函しているのか、業者の住所が板橋西近辺にあるのだ。

事件扱いなら事件番号で記載されるはずだし具体的な内容自体が何も記載されていない。

 

 

最高裁判所から来た裁判員裁判の封書もカラー印刷で奇麗なものだったし、その後の裁判員裁判の出廷命令の封書も、大きくて厚くて立派な封書だった。裁判所書記官様からの封書もきれいな印刷の封書だった。

来るとしたらこの裁判所から来るはず。

 

 

・・・・・なに?このハガキ。

 

 

 

一番怪しいのが数か月前から高校の名簿業者が名簿を買え買えと郵便がくる。怪しいため数年前から放置だが、こういうタイミングでこういう架空請求がくるとなると、卒業名簿業者が怪しく、おかしいと思う。

 

ま、要注意だ。

知人たちにもお知らせしておいた。気を付けよう。

 

 

年寄りは梅雨に体調を崩す

介護をしていると気が付くのが本人の体調の変化が梅雨時が一年を通してもっとも悪くなる時期である、ということだ。

 

神経を痛めたせいか梅雨の時期は本当に動かないので今日も運動をやらせた。嚥下も手足もリハビリが必要なのだ。病気になってもらうと大変なのだ。


春先にこんなことがあった。
春先に確定申告のバイトがあって、応募したら採用が決まった。

が、決まってすぐ父が熱を出した。熱は39度。

いきなり寒いと言い出してガタガタ震えだした。食事を済ませてトイレをさせようと便器に座らせてすぐだ。腕を絞めて体は硬直したかのように、そして声色も急に震えだした。体中の筋肉に自ら力を入れて入れまくっているように見えた。そう、まるでわざとやっているのかと思うくらいいきなりの変化だった。

なに?寒いの?と聞くと寒くてかなわない、寒い、寒い、と言う。
食事を終えて30分経っていない。先ほどまで話をしながら食事をしていたのに、だ。

以前も入院中にこんなことがあったと頭をよぎる。やはり急に発熱した。
その時はインフルエンザと思われたが陰性で、結果精密検査をしてもらって結果、腎盂腎炎と分かった。ちょうどそのときの体調変化に似ていた。

まさか。また肺炎?腎盂腎炎?なんだろう、そう思って取り急ぎベッドへ寝かせようとしたら、今度は車椅子から立ち上がれない。しかたないので椅子をベッドに横付し、椅子に私が座り、当人を車椅子からいったん自分へ引き寄せて立たせ、方向を変えてベッドへ、と思ったがそれももう出来なかった。
とにかくがちがちに力を入れまくって腕も解放できなかったのだ。

こういうときはどうしていいのか分からず、本人を説得してとにかくおかしいから何とかしてベッドへ行こうと言い、先ほどの要領で移動させた。本人は手も足も力を入れまくってガチガチ震えている。声も震えている。何ともなかった30分前とは全然違うのだ。とにかくベッドへ移動できたのですぐさまバイタルチェックをした。

血圧、いつもと同じくらい、脈拍はかなり高め。体温が38度位。解熱剤を飲ませようかようか様子を見るべきか?迷った。
寒い、寒いと訴える。私は押入から季節外れの布団を引っ張り出しベッドに乗せる。冷静になって再度体温を測ると、38度5分、と上がってくる。食後1時間で体温の上昇が1度。早すぎる。すぐ訪問ナースに電話をかけるか主治医に電話するか迷った。

こういう時どうしたらいいのか?
時間は夕飯が終わったころだったのでドクターコールをしてみたら、来て下さると言うので玄関の街灯をつけ開錠をした。しばらくしてDrが来て下さった。

が、いつものDrじゃなーいw
今はお休みで代わりのDrが来て下さったのだ。
道理で車が違うと思った・・・・。

聴診器で胸の音を拾ってもらったが異音がないらしく、肺炎でもなさそう。
いままでの経緯を説明し以前の似た症状を伝えると飲み薬と抗生物質を貰う。解熱剤も。とにかく飲ませて様子をみていたら、Drの到着に熱を測ると39度近く。1時間半で36度5が39度。
Dr曰く、おそらく感染症でしょうと。お帰りになった後すぐさま解熱剤を飲ませ様子見をする。

Drが帰られたのが午後8時半ごろ。それから2時間ごとに熱を測ってみたら11時ごろ38度に。
とりあえず寝ることにして夜間3時ごろ熱は38度のまま。そのまま朝になる。

翌朝、熱は37度5分くらいになっていた。主治医から電話があって朝食後こちらへ来て下さると言うので待つと7時半ごろいつものカッコいい車で来て下さった。そしてDrみずから導尿してくださった(!!普通Drはやりません。もう大感謝)

かなり汚れていた。オシッコが。

最初に泌尿器科でもらったカテーテルにゼリーを塗っておちんちんの穴に挿入するのだが、子供の私がやろうとすると当人は猛反対!恐ろしいのでやめろと大暴れ。しかたないのでいつもはナースにお願いしていた。

おちんちんから尿道カテーテルを通して膀胱に溜まったオシッコを外に出す。片方の先はダイソーで買った1Lの食品用計量カップで出てきたオシッコを受ける。おなかを軽く絞り出すように抑えおしっこが無くなったらおしまい。これがいつもなのだが今回は。

まるで冬の蜂蜜の瓶の底にたまったドロドロのようなものがカテーテルから出てきた。結果、「尿路感染というやつです。」つまり動かないのと体力が落ちたために、細菌が繁殖して、腎臓にたくさんある毛細血管から一気に体中に回るので急に発熱する・・・だそう。

以前やった腎盂腎炎のようなものかな、と思いつつ、父の様子をみる。

Drは小さな点滴のパックを手に点滴を開始。病院のようにぶら下げるところがないので、部屋にあったシングルハンガーをベッドの横に持ってきてそれにS字フック(ダイソーのやつ)をぶら下げてそれに点滴バッグを下げてくださった。

Drすいません、役に立たなくて、と言いながら手伝っていた。
それに、朝ごはん後の病院が開業する時間前に来て下さって。
Drまじ!ありがとう!!

本当に頭が下がる。若いDrに主治医を頼んでよかった。

そうして急な熱は翌日もDrが訪問して下さった。翌日は定期訪問に当たったのでちょうどよかったが。
熱が下がっていたので飲み薬だけもらい様子見だった。熱は翌日には平熱になり当人はケロッとしていた。体がまだだるいようだったので1週間は様子見となった。
早い抗生物質と導尿とが良かったのだろと思う。念のため毎日導尿を一週間連続でナースにやってもらうことになった。

抗生物質は殺せない耐性菌が残るとまずいのであんまり使いたくないのだろうし、私も使ってもらいたくないと思っていた。物理的に導尿カテーテルで問題を削ってくれた対応がありがたいと思った。

つか、当人がもっと運動すればいいのだ。
体力が落ちてきて運動をサボるからこうなるのだ。

こんなドタバタがあり、結局確定申告のバイトは税務署に電話で断ってしまった。断ってから治ったので本当にあーっと思う。

年寄め・・

8050問題

NHKが募集を始めている。
8050問題と名称までつけてある。
そして生活困窮者支援窓口へのお奨めまである

 

自分自身が、まあ、客観的に見て、この問題のさなかにあるのだろうと思う。

 

行政に何ができるのか、と思う。

 

政策の法令化した、それも実効性のあるものがあるのかと。

役人、つまり彼ら行政は法令化したものでなければ動けないのだし、名称や機関が設置されていても、ただそれだけで、枠が設置されただけ、と考えている。

 

生活保護とかODAのような、政府の援助はむしろ今、自国民へ回すくらいのものが無ければ何ともならない。そして今は借金だらけで国に予算の財源がない。

 

中途採用の枠、40代以降の正社員枠が一体どれだけあるのか。
派遣が出来てその時々の仕事だけ。アルバイトでは仕事は会社への低賃金奉仕状態だ。
労働組合もない。社会保障も労災と雇用保険だけ。

 

子供が出来てから離婚した夫が、妻に養育費を支払わない場合、給料差し押さえして子供へ送るシステムを法案化の話が持ち上がった時のように、企業から差し押さえて労働者へ送るシステムがあってもいいと思う。経団連の言いなりになりすぎだ。企業には、若いころに働いた高い利益が残っているのだから。
今の人に労働力の搾取とか言われても当然だと思う。

私が金儲けをしようと思ったら、安い労働者を集めて、小銭を集めた方が良いと思うくらいだ。

 

以前も書いたが本当にあほらしいほど賃金が安い。

2時間おきに水分を取らせるとなると自分では用意できないので職場を往復しようとすると全くと言っていいほどバイトの時間が取れないのだ。

一旦家へ戻ると、家を出るとき一通り戸締りやら火の用心やら、本人の状態をみてからでるためめちゃくちゃ時間がかかる。気を使うのだ。ちょろちょろっと動くときがある乳幼児を家に残して出かけるようなものだ。

ずっと職場にいるかずっと家にいた方がどうしたって効率が良い。

ちょいちょい手助けを必要とするのと、まとめて手助けするのとは効率が違うのに、介護保険の介護にかかる時間の算出はまとめて何時間とかになるので、現実的ではないのだ。現実はまとめてやるには本人が耐えられず他の問題を引き起こす。たとえば事故とかだ。

家で介護をしない人が働いて、介護の基準を作っているのだから、当たり前だ。現実とかけ離れたプランが法令として通るのだということ。

なんというかネーミングが悪い。

8050問題ではなくて8050要救助の間違いだ。

貧困は財源をなんとかしてばらまけばいいかもしれんが孤独はそういう物理的なもので解決できない。

自分ではどうすることもできない檻に捕まってしまった。

 

 

介護と再就職を思う

自宅で介護して10年以上たつ。

生活が苦しくなるのと同時に精神的にも苦しい。
お金は欲しいし、かといって親をほおっても置けない。そのうえ年齢を重ねてくると、就職先が見つからない。どうやって再就職していいのかわからなくなってくる。

今日も悶々として夜中に目が覚める。

私には子供がいない。離婚したのは後悔してないがこれからどうしていいのか考える暇がない。思いつかない。だんだん追いつめられてるなという感覚があるが、介護と生活に追われてくると落ち着いて考えることが出来なくなってくる。ただ焦る。どうしていいのか分からず焦る。

ケアマネからは就職して親の年金は親自身の介護に、あなたはあなたで自立して仕事してとか言われて半年以上たつ。その間、短い期間だったがアルバイトをしてみたものの、意外と赤字になるのが分かり、辞めた。

せめて正社員くらいとは言わないがある程度収入がないと外出するだけでも費用がかかってしまい、普通のバイト程度ではまったく間に合わない。
バイトでいいがもう少し時給が多くないと仕事に出る意味がわからないほど収支が合わない。世帯で計算してみると年金で介護を自分でやった方が足が出ないのだ。時給800円かそこらで短時間で外で働くと赤字になる。信じられない。どうしても正社員ほどの時給がないと介護しながら生活出来ないのだ。

今も求人を300ほど見てパソコンを閉じる。今は景気はどうなんだろう。昔務めていた会社の求人を見つけて、あああ、と思う。懐かしさやら後悔やら。

食い下がってみようかと思ったり、ブランクと年齢を考えると会社のお荷物になるのも考えてみたり、一歩が踏み出せない。同期のみんなはまだあの会社で仕事をしているのだろうかとか思う。

親は。よくなったり悪くなったりだ。
ヨタヨタと立ち上がるといつまた転ぶかわからないし、かといってベッドに縛り付けて体力が落ちてくるのは好ましくない。目が離せない。
何度か入院をしたたびに、親がパニックになるというか、精神的に不安定になるのだろう、入院するたびにせん妄になりはたから見ると認知症に見える。精神的に参ってしまうのだろう、慣れないうえに恐怖があるからだと思う。心配性の性格だから無理もない。私は放っておけない理由の一つに身体のほかにこれがあった。

迷うのは、兄弟もそうだが、「親は先に死ぬのは当たり前」とケアマネからも言われ世間の意見も言われ確かにそうなんだが、私は頭で理解しているがなかなか受け入れられないでいる。
離婚したときもそうだが、子供がいない上に介護の長くなりそうな私に伴侶まで付き合う必要もないしさせたくないし、しかし今、私は本当に孤独を感じるようになった。おそらく親もそうだろうと思う。
捨てていくのは確かに合理的で、施設に入れるよう勧めるのもわかるけど、相手はまだ頭がそこそこしっかりしている。私も認知症になってどうしようもないと思ったら施設を頼るしかないと思っているが、そうでない今、その選択肢は今はない。出来ない。私にはほかに家族がもういないからだ。
必死になって守ろうとしてくれて来ていた親である。ほかにいないのだ、そういう存在は。
だから施設で暮らせとは言えない。できない。

しかし親も心配する。自分が死んだあと、どうやって暮らしていけるか先を心配する事を口にする。私自身も心配である。

そしていくつか就職先を探すものの、なかなか思うところがない。
なんとか自宅で住まわせてやりたいし、費用を考えると自宅がいい。

親がいなかったらフルタイムでアルバイトでも仕事ができるだろうが、今はその選択は難しい。いったん正社員からこぼれてさあ就職しようにも本当にない。就職させてもらえそうな会社がない。大たい私自身が間に合うのかすらわからない。とても自信がない。
考えてみたら10年という月日は長すぎる。パートで働いても1000万は収入が消えたのだ。振り返ると大きすぎる。
ケアマネを恨みたくなる。どうしてヘルパーの利用をできなかったのかと。
デイだけでいいと思い込んでいたなどと。引き継ぎが出来てなかっただと言われても泣きたいのは私の方だ。あんなにヘルパーの依頼をしたのに全く聞いてなかったのかと。
デイだけでは、会社の時間と親の体調や希望があわず、家族が介護の補助に入らなくてはなんともならないのだ。どうしてわからないのだ。主婦のケアマネにはそういう事さえわからないのか。家族の介護をあてにするなら介護保険料など取らないでもらいたいくらいだ。ケアマネの資格を返上してもらいたいくらいだ。今介護保険を使わないでいつ使うのだ。

親に言うともうどうにもならん、という。
外が明るくなってきた。夜が明けるのだ。
また仕事のことばかりやっているとまた親の体の調子が悪くなったりする。無理や心配をさせてしまうと体調にもろ出る。私の介護のスピードが間に合わなくなる。介護していて気が付いたのは、親本人に私の注意が要ってないと本人が気が付くのかわからないが、調子が悪くなるのだ。なにか無理したりするのか、それともかまってほしいのか、何かわからないが、調子を崩すことがよくある。
思っているより、家族の影響が大きいように感じる。
だから気が抜けないのかもしれない。

春なのに寒い

さすがに今日は寒い。四月になったら石油ストーブ用の灯油を買い足すのをやめていたが買わなくてはならないかな、なんとか節約して10日ごろまで持たせられないかな、と、けち臭いことをやり始める。買ってきて余ってしまって困るのが嫌だからだ。

親は昨日、ナースに尿カテーテルで残尿を取ってもらっていた。トイレの後一時間半ほど経って60CCほどたまっていた。白濁はごく少量あった。二か月前の白濁が50ccほどあった時を思うとずいぶん澄んで綺麗な尿になっていた。少し安心した。

そして今日、ニュースで宮本亜門さんが前立腺がんというニュースを見る。がん、と聞くだけで私は震えあがってしまう。怖い。毎日みる青空も、気持ちが暗く落ち込んでいるとまったく目に入らない。ずーんと胸に重しがあるようないやな思いになる。落ち込む。足のふくろはぎから足の指までシャワシャワとした変な感覚が起きる。急に人恋しくなってひっつきたくなる。

原因のところを読んで食事や生活を見直す。
私は、親は、死ぬとき、どんな生活をしたいのだろう、と思う。
どうせ急にわかっても多分、何も変わらない。何もできない気がする。出来るならいつもと同じ生活をしたい。心が安らぎ、出来るだけいつもと同じ穏やかな時間を過ごしたいと思う。ただただ怖い。私は怖がりなのだ。

朝太陽が上がるとホッとする。子供のいる人は将来を夢見て心配をするのだろうが、親のいる私は将来は当然死と向き合うので今の穏やかな生活が続くよう願う。体調も心もなるべく穏やかに健やかが一番の願いだ。どんなに年を重ねても死は怖いのだと思う。私自身とても怖い。いくつになっても変わらない。

市役所の助成される紙おむつの金額が昨年より1割減らされることになった。予算が無くなってきたのかだんだん高齢福祉にかかる金額が減っていく。
住宅の改修工事の市の助成金も半額になった。隣の町の助成金は住宅の分は無いと聞いた。
気象といい、市の財政といい、四月に入ってお寒い状況だと思った。

退院して一年後その2

元号は令和であります、というニュースを見た。親はすぐ私に聞いたのは「おい、令和のレイはLか?Rか?」であった。

「はああ?」自信が無くてネットで検索するとRらしい。
「やっぱりRみたいだよ」と言うと
「年齢のレイの横のやつか、あれは書きにくい!!」
知らんがな。

あっという間に平成が令和になるのか。あっという間に人生の時間が過ぎ去っていく。たくさんのことがあって、それでもあっという間な気がする。100歳のおばあちゃんが100年はあっという間だったと言っていたがその通りかもしれない。

隣でご飯をゆっくり咀嚼しながら食べている横顔の頬のあたりの筋肉の動きを眺めていた。ちょうど耳の付け根の頬骨のあたりから顎にかけての筋肉が動く。いち時期はげっそりや褪せて噛むための筋肉が見当たらなかったくらいだったが、今はしっかり確認出来る位盛り上がり咀嚼をしていた。

胃癌のため三分の一の胃の為に柔らかくなるまで噛み続ける。一年半前にご飯が口から零れ落ちていたが、今それはない。誤嚥性肺炎に懲りて毎日口くうケアと口の体操を続けている。たまに忘れるときがあるがほぼ毎日やっている。STから教わった額を下向きに押す訓練も、発音訓練も時々サボるが忘れずにやる。首筋のマッサージも私が忘れなければやる。時々忘れるがまあ継続してやるように努めている。今のところ熱やムセはない。

体重は一年前は35キロ少しだったのが今は40キロ少し。
胃癌で手術する前は48キロだった。もともと痩せていたので二割は体重が落ちると言われ40キロを割らないよう必死に食べていた。それが肺炎であっさり割り込んでさらに骨折して痩せてしまい、お尻の肉も無いに等しいほどがりがりになっていた。入院しているとどんどん痩せていく。栄養士が建てた献立だし間違いがないと思うのだが、やはり痩せると本人も落ち込んでしまうようで、リハの人を捕まえてはこんなに痩せた、と訴えていた。今は本人も体重が戻ったせいかいくらか機嫌がよく前向きになっている。

 

早々に退院して自宅に戻ってから少しずつ少しずつ体重が戻ってきて、一か月に一キロづつ半年で入院前の体重に戻ってきた。胃を取った前の体重に戻るのは厳しいようだが、それでも肺炎の入院前まで戻ってきたのは良かったと思う。一般の食事に近いものを食べれるようになり、歩行器で室内を移動できるようになってきた。最近は口くうケアを自分でやるようになった。
もっとも起用には出来ないので時々仕上げは私がやる。

口くうケアのやりかたも一年前と比べるとかなり変わった。最初は専用のウエットティッシュを指に巻き付けそれを口の中に入れて歯茎などの回りを拭き取っていた。舌苔はモアブラシを使い舌を三回ほどこすり苔を取り除いた。そのブラシでついでに頬の内側のマッサージもやった。唾液の出やすくなるところをマッサージしてやると苔が付きにくくなるらしい。これを毎食後行った。初めは本人が出来なかったので私がやっていた。それから数か月、本人がやるというので見守りながら続けた。

それを退院してそろそろ1年たつ。口くうティッシュは退院後半年程度でやらなくなった。ぶくぶくうがいが出来るようになったからだ。体重の減少と同時に口の周りの筋肉も落ちていたが、次第に回復した。
誤嚥の肺炎の退院後に耳鼻咽喉科で嚥下の検査をした。その時はごっくんした際に喉の途中に試験ゼリーが残っていた。話を聞くとどうも喉の途中に大さじ一杯分くらいのポケットが喉の奥にあって、喉仏がしっかり上下しないとそこに留まって胃に流れないらしい。肺に行くと危険なので空ごっくんを二三回やるよう注意を受けた。今検査をしに行ってないが、どのくらいの力が今あるのか検査しに行ってみたいくらい、自然にごっくんしている。調子に乗るといけないので食事中、テレビやおしゃべりに夢中になっているときは注意をする。

 

最近は自宅のお風呂に入るのが目的である。リハビリをしてくれるOTPTさんにお風呂に入るために足のストレッチや座って風呂桶のエプロンをまたぐ訓練をやっている。神経痛がひどいのだがお風呂で温まると痛みが改善されるらしくて、どうしても入りたいらしい。デイサービスでは時間が決まっているうえに体温や血圧がちょっと高いと入れてもらえないし時間が短いため不満があるらしい。本人はお風呂は痛みを緩和できる治療なのだ。とにかく一生懸命にやっている。病院のリハビリの歩いたり手の動きのリハなどはかなりいい加減にやっていたくせに風呂のリハビリだけは別らしい。顔がもう真剣で真面目にやっていた。

 

褥瘡になりかけていた仙椎と足の踵のところも今はたまに赤くなっているくらいで褥瘡になってはいない。入院中はエアーベッドだった。退院してからは介護保険マットレスを借りた。エアベッドは寝っ放しはいいが寝返りを打ちたいときには柔らかすぎてかえって良くないらしく、褥瘡予防のベッドマットレスの特に柔らかいを使っていたが今は予防のソフトに変更してもらった。睡眠時無呼吸で唾を飲まないよう横向きで寝させるためだ。横向きにしておいても夜中におむつ替えするときにはもう仰向きになっているので勝手に寝返っているらしい。

褥瘡というのはねだこの事だ。寝たきりだと褥瘡ができる。だんだん下の骨まで見えるようになり肉が無くなる。毎日水をかけて洗うことになる。本人にネット上の褥瘡の写真を見せたらうわーと言って固まった。寝たきりは寝っ放しで楽ちんだと思っていたらしい。

 

筋肉は年をとっても鍛えることが出来ると90代のお爺ちゃんがテレビで話していたが、そうかもしれない。継続は力なり、だと思った。

肺炎の入院と骨折の入院の後

ちょうど一年前の今日、親はリハビリ専門病院を退院した。
帰りの道々は安会に近い桜が咲きほこっていた。今年は寒さと雨風に加え雷で桜ではなくゴミが庭に吹き飛んできていた。

おととしの2017年7月、体調が良くなく、体温を測ると37度少しの微熱が一月ほど続いていた。本人は体がだるいと訴えていたが熱は微熱でこれと言って症状がなく、夏風邪だろうと話していた。同時期に食事中に口からご飯粒が落ちることが良くあった。それも食事しながら話をしていてはご飯粒が一つぶ落ちる、といった具合であった。ほかには、何かものを拾おうと腕を伸ばした際によだれが一滴落ちるといったことがあった。それを本人に言うとああ、気を付けると話していた。

同年8月、あまりに体がだるいと言い出し、脱水状態を疑って病院で見てもらうと診断は細菌性の肺炎と診断された。MRIには肺の炎症が写っていた。ただ肺炎によくあると聞いている高い熱やタンが出るようなことはなかった。DRからは「高齢だし念のため入院しましょう」と言われた。原因を尋ねると「うーん、何かはわかりません。土かもしれないしエアコンのカビや埃かもしれないし、人からうつったかも知れないし。体力が落ちているとなります」

三週間ほどで退院になった。酸素マスクもなく、抗生物質の点滴だけだった。そして退院の翌日ぐったりしていたため熱を測ると38度だった。
急いでかかり付けの医師に相談すると点滴をしてくれたが、本人いわく「あまり変わらない。」そのまま三週間自宅で様子を見る。次第に腕もあがらなくなりさすがにおかしいと思い救急病院へ。診断は誤嚥性肺炎と心不全、低ナトリウム血症、低アルブミンで肺炎は重症と診断された。医師からは「欧米では肺炎で3か月以内に肺炎になった人にはもう治療をしないのです。ここは日本だからやりますが、延命どうしますか」頭が真っ白になった。
兄弟とも話しをして延命はしない方向で医師に伝えた。炎症反応も17を超え白血球も数が上がってくる。タンを取るのが二時間に一度。酸素の数字は3を示していた。点滴だけで食事は出来ない日が続く。本人は意識がもうろうとしていたのだろう、面会に行っても目を開けることはなかった。
何もすることがない。病室を後にする。

それから二、三日後、レントゲンを撮ったりCRP炎症反応や白血球の数をみたりしたがなんとか山を越えたらしい。

その数日後、病室へ行くとST(言語聴覚士)さんが水の飲ませ方を書いた紙を貼り本人に水を飲む訓練をしていた。喉仏が上下したのを確認して飲ませるよう言われる。水といってもとろみのある水だ。アイソトニックゼリーという。一口口に入れて、「水ですよ、はいごっくんして!ごっくん!」
本人の喉仏が上下するのを見届けてから「はい、よくできました。もうひとくち飲みますよ、はいお口に入れますよーはいごっくん!ごっくんですよ」
「念のため吸引しますね、ああ大丈夫です。ちゃんと飲めてました」
誤嚥になると恐ろしい、一口が命取りになる。
私も飲ませ方から教えを乞おうとしたがかなり怖い。しばらく見学であった。最初はとろみのある水、そしてゼリー、それから数日してミキサーとろみ食の訓練食と書かれているものになった。

食事はすべてドロドロのミキサー食にとろみをつけた物。どれがご飯で汁物でおかずなのかさっぱりわからない。お皿がそれぞれどの料理かを教えてくれるくらいで、すべて泡だてたノリの塊にしか見えない。食事がでても本人は全部食べれなかった。数口食べるだけでむせる。むせるとナースは様子を見て食事を下げてしまう。食事でも体力が必要で一回の食事にかける時間は20分と言われた。その時間を超えたら疲れてしまう。疲れていては食べることも出来ない。食事は病院の決まりで二時間で下げることになっているが数回で下げていた。

一口、また一口だ。間違って肺に入るとまた命取り。一口を本人の体力に合わせて食べさせる。ナースの忍耐も大変だろうなと思って見ていた。一口食べさせるのに「はいご飯ですよーごっくんしてくださいね、はい、ごっくん!はい、よくできましたー次行きますよーおかずですよ。はいお口に入りましたよ、ごっくんして下さい、はいごっくん!ごっくんですよー、ごっくん!まだ喉に止まってます。頑張ってはい、ごっくん!!はい入りました、食べれましたね。もう一口いきましょうか、お口あいてください。はいおかずですよー。お口に入れますよ、はい入れました。ごっくんして下さい、ごっくん!はい、OKですー」ずっと食事中この状態であった。喉の喉仏が上下するのを見届けて一口一口話しかける。ナースすごい、すごいよ。

STさんが言うには。「私たちも年を取ると飲み込むのにすごく力が要るようになるんです。みんなそうなるんです。若いうちはなにも意識しなくて食事して飲み込むんですが年を取って筋力が落ちると物を飲み込むにもとても力と集中力が必要になるんです。一歩間違うと肺炎で命を落としますから、体力をつけましょう」

誤嚥という事はわかるがそれなら、初めから飲み込ませるのが大変なら胃カメラみたいにチューブでも胃まで差し込んで液体を注入すればいいような気がしていたが食べる訓練をするのだと知った。まどろっこしい、と思っていた。でもなにか目的があるんだろうな。これから家に帰ったら食べないといけないんだろうし。などとぼんやり思っていた。

口くうケアも同時に行われた。舌苔が真っ白でひどかったのだ。食事後にナースがとっかえひっかえ少しずつ少しずつ専用のブラシではぎ取ってくれた。舌苔が取れるまで数日かかったがこんなにきれいなピンク色をしていたのかと感心するほど綺麗に取ってくれた。
後日、最初の肺炎の細菌性肺炎の原因はひょっとしたらこの舌苔と睡眠時無呼吸の組み合わせで起きたのではないかと思うようになった。テレビで肺炎と睡眠時無呼吸症候群の話をしていたからだ。

数年前に睡眠時無呼吸症候群のテスト入院をした際、既定の回数に達しなかったので症候群扱いにならなかったが何度か無呼吸は確認されたしその都度口を開けて深く大きな息を吸う呼吸をしていた。ばっちい唾を思いっきり吸い込んで肺炎をやらかしていても不思議ではない。今は寝るときなるべく横向きに寝かしている。念のためエアコンの掃除はまめにしてるし、土埃も空気清浄器を付けたしクリルベンも置いた。ベッドの下の誇りやカビも拭き取っている。なにが原因かわからないが怪しいのはとりあえず取り除くよう努めている。

その後リハビリは立ち上がりも含まれた。手足にまひが残るがヨタヨタでも捕まってなら少しの時間なら立っていられる。とにかく立つことが出来なければ寝たきりで褥瘡になる。病院のベッドは褥瘡になりかけていたためエアーベッドであった。それを起こして車椅子に乗せて手摺になんとか捕まれないかとPT、OT(どっちが最初だったか)さんが開始してくれた。入院でベッドに寝っぱなしだったため早くしないと体力が落ちてしまうから。本人もヨタヨタだったが必死に手摺にしがみ付いて立とうとしていた。一瞬数秒だったが手摺に捕まって腰を浮かせることが出来た。それでもう疲れてしまったのでまた次回になったがとりあえず立てた。そんな日々だった。

そして退院。栄養士さんから主食はおかゆ、おかずはミキサーとろみ食、補助の栄養ゼリーを取り寄せ水はアイソトニック。少なくとも三か月は気を付けて、緊張が無くなったころ皆さんまた入院されますと言われ目標三か月は入院したくないと家で食事を作る。
そして順調に自宅で過ごしていたころ事故が起きた。居間で転倒、左大腿部頸部骨折だった。

ちょろちょろ動き始めて危ないから待っててと声をかけ食事を作っていた時に、椅子と共に転倒した。急いでケアマネとナースを呼びまた救急車で病院へ。12月25日クリスマスの出来事だった。
翌26日に手術。病院は手術の予定は26日が最終だったらしい。正月休みになるので少しぐらい大勢でも終わらせてしまうとこだったそうだ。幸い手術の予定をいれることができ、24時間待たずに手術となった。

また大腿部頸部骨折の後次にやるのは動く方の足で今度は大掛かりな手術になり体力的に出来なければまあ寝たきりになると言われた。
寝たきりになったら後は肺炎か認知症感染症か合併症などでサヨナラコースと決まっているそうだ。だから危ないから動くなと言ったのにうちの親は子供のいう事を聞かない。しかし起きてしまったのは仕方ない。

大腿部頸部骨折はこの地域のこの病院では一日一件はあるメジャーな骨折で、今日もまた今日も、といったくらい毎日やっているそうだ。レントゲンを見るとどこを折っているのかわからないくらいだった。うっすら筋があってこれが骨折の箇所だった。骨折した後すぐに無理して立ったり歩こうとしなかったから骨がバラバラになってなくて良かった、と言われた。
本人は床からは自分で起きれないのと、私がすぐ見つけて動かさなかったのだがそれらが幸いした。歩こうと立ち上がり体重を乗せた途端骨がバラバラになるのだろう。骨がバラバラになっては他の危険なことが増える。とにかく高齢者が転んだら無理やり起きて歩いてはいけない。動かさないですぐ救急車を呼ぶべし。

手術は成功した。翌日から座位と体重を乗せるリハビリ。毎日大晦日もリハビリ。肺炎でお世話になったSTさんも食事に来てくれたりしてリハビリ。正月料理も出たんだろうが、嚥下訓練食のためミキサーでドロドロではなにがなんやらわからない食事が出ていた。お正月なのに。
そう病院はお正月なのにリハビリをやってくれた。付き合ってくれる理学療法士さんありがとう。一日も休まずにやってくれた。

そして転院。今は救急病院は2週間で出ていくとなっている。しかし年末年始があったせいかおよそ一か月入っていた。転院先の病院でこれまた毎日リハビリだった。歩行器で歩けるようになり食事も普通食に近い柔らかい食事まで回復できた。そして二か月で退院。ほんとうは三か月くらい入っていられたのだがものすごいインフルエンザが流行っていて本人が病院にいるのが嫌になってしまったからだ。隣の患者から咳がとび高熱が何度も出る。おかしいというのだ。それでまあ退院となった。

ネットで見ると骨折する前のようになる人は1割らしい。杖や歩行器になったり車椅子になったり。うちの親はもともと歩行器と車椅子なので以前とあまり変わらないがそれでも前みたいに歩行器の使用は控えるようにした。歩く練習の時は後ろをついて歩いた。

2018年11月なんとか自宅で風呂に入れるようリハビリを開始。最初は5分で立てなくなったが今は20分ほど湯船に入っていられる。
普段の生活ができるというのは、とても幸せなことだと思う。
そして新元号が明日発表される。